『沈黙-サイレンス-』米国カトリック教会バロン司教によるレビューを読んだ感想

『沈黙-サイレンス-』を見た後、信仰心がない私がこの映画に100%の共感を覚えることはないだろうと直感的に感じました。高名な米国カトリック教会の司教は『沈黙-サイレンス-』にどのような感想を持ったのでしょうか?(ネタバレがあります。ご注意ください。)

バロン司教について

ロバート・エメット・バロン司教は、(1959年11月19日生まれ)は、カトリック教会のアメリカ人高位聖職者高官であると同時に、作家、神学者、伝道者としても知られています。

映画からトークショウ番組のホストまで幅広く論評されるほか、”World on fire”というカトリックの布教サイトを運営されていることでも知られています。

バロン司教の『沈黙-サイレンス-』レビュー

そのバロン司教による『沈黙-サイレンス-』のレビュー(英語)がこちらです。

バロン司教が指摘されているポイントを要約すると、以下のようになると思います。(なお彼は数年前に遠藤周作の原作を読んでいたそうです。)

  • 文化的なエリートはキリスト教信者を人畜無害な状態にしておくために信者間で分断を試みる。棄教したポルトガル人宣教師をそのまま生かしておいたのもそのためだ。
  • 江戸時代の日本の文化的エリートが行おうとしていたことが、現在の文化的エリートによってここアメリカでも行われる懸念がある。彼らにとっては、キリスト教信者達が秘かに祈りを捧げていた方が都合がいいのだ。
  • 遠藤周作も、そしておそらくマーティン・スコセッシも、主人公のロドリゲスが信者の命を救うためだとして、心の声(キリストの声なのか、自分自身の声なのか、それとも悪魔の声なのか)にしたがって踏み絵を踏んだことを、キリスト教に対する裏切り行為として描いてる。
  • その意味でこの映画で最も喝采を贈るべきなのは、海辺で殉教した3名の日本人だろう。

(参照:World on fire)

まとめ

このバロン司教のレビューに対して、掲示板では多くのキリスト教信者の皆さんから賛同のコメントが寄せられていました。

私個人としては、ロドリゲスが最後に聞いたのは神の言葉で、それに従った彼は信仰を捨てたことにはならない(最後までロザリオを持っていたではないか)という考えでしたが、カトリック信者の皆さんにとってそうした考え方はどちらかというと少数意見なのかもしれません。

信仰の力は大きく、為政者が一歩過ちを犯せば天草の乱のように統制で効かなくなる恐れがある。根こそぎ信者を排斥して殉教者を作り信仰心をさらに強めるのではなく、影響力が強い聖職者を棄教させそのまま生かしておくことで、信者間の分断と弱体化を図るという戦術が採られたわけです。

江戸幕府の手法は、現代の文化的エリートにも見られる手法だというバロン司教の分析は的を得ていると思いました。同時に、こうした国境を超える普遍的なテーマで小説を書いた遠藤周作の偉大さをあらためて感じます。


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